あれから、どのくらい時間が経ったんだろう。
いつの間にか、眠ってしまってたみたい。
唐突に身動きを阻む重みを感じて、ドリスはそっと首を曲げた。知らないうちに馴染んでいた温かさが、その動きに同調するように動いた。
ぼんやり目を開くと、小さな焚き火の照り返しを受けて輝く銀髪が、すぐ鼻先にあった。
心臓が飛び跳ねた。
「……っ!!?」
「……起きたのか?」
彼がぽつりと呟いて、赤い瞳を上げる。
「完全に足止めだ。雨足が強まるばかりで、出られない」
「え、あ、ああ、うん、そう、みたい、ね」
ドギマギと早口で言って、ドリスは立ち上がった。立てかけてあったカデシュのロッドを倒しそうになって、慌てて受け止める。カデシュは特にどうといった反応を示さずに、広げていた書物に再び目を戻した。
いつの間にか、カデシュに寄りかかって眠っていたらしい。
ドリスは決まり悪そうに、二人が今、緊急避難した小さくて狭い洞窟の入り口に向かって歩き出す。
「あまり外へは出るな。この雨に打たれでもしたら、後々厄介だぞ」
「こ、子どもじゃないんだから、それくらい分かってるわよ!」
照れくさくて仕方ないもんだから、わざと大声で怒鳴って、ドリスは駆けだした。
真っ赤になった顔を見られたくなかった。
洞窟は入り口へ行くほど広くなっていて、なぜかここには魔物もいなかった。
歩きながら、どうしてこんな状況になったのか、それを思い出してみる。
次の町まで歩いていくのに野宿をしなければならなくなって、街道沿いに偶然見つけた小さな小屋で夜を明かすことになったのだ。
空模様も怪しくなっていたが、暖を取るにも薪がなく、仕方なく薪拾いに出かけたドリスと、彼女に無理やり引っ張り出されたカデシュだったのだが、突然雨が降ってきたために、近くに見つけたこの洞窟に飛び込んだのである。
タイミング悪いなあ、もう。
ドリスはぶすっとして思う。どうしてまた、二人でいる時に限ってこんな、どうしようもない状況に追い込まれるのだろう。
洞窟の入り口から外を見ると、まるで滝の裏側にいるような感じで。
「こりゃダメだわ」
肩を落として、ふうっと息をつく。
洞窟の中で、拾った薪とカデシュの魔法で起こした、その焚き火が、ぼんやりとした光で雨による水の流れを照らしていた。
外はもうすっかり暗くなっている。おそらく、小屋を出てから2時間は経っているのだろう。
テンたちは無事だろうか。無事には違いないのだろうが、ちゃんと暖を取れているのだろうか。
「そう言えば、お腹減ったなあ」
最後の薪を夕飯に使ったため、こうして出てきたわけだが、少し眠ったせいか小腹が空いたらしい。どんな時でも至って健康なドリスである。
そしてふと、思い当たった。
「そうだ。確か荷物の中に、クッキーがあったっけ」
旅の楽しみの1つで、各地を回ったときには必ずその土地のお菓子を買うことにしているドリス。今持っているクッキーも、その1つなのだ。
本当なら、夜中にテンソラと3人で、こっそり食べようと思っていたのだが。
えへへ、という顔で戻ってきたドリスを見て、カデシュは怪訝そうな顔をした。
ドリスは小さなリュックの中から、袋入りのクッキーを取りだして焚き火のそばに腰を下ろし、その炎を見つめながら、幸せそうにそれを頬張り始めた。
「あんたも食べる?」
「いや……」
こんな時によくそんな幸せそうに物を食べられるもんだ、という顔をして、カデシュがため息をつく。
「美味しい物はどんなところでだって美味しいもんよ」
それを聞いて、彼はふんと笑い、再び本に目をやった。
沈黙が続いて、ドリスはパチパチとはぜる炎を見つめる。
「ねえ」
「何だ」
「薪、足りないよね、きっと」
「どうしようもないだろう。この雨ではな」
そうだけどさ、と唇をすぼめてから、彼女はあくびを洩らした。お腹がいっぱいになると、今度は眠くなってきたらしい。なにもすることがないから、退屈で仕方ないのもあるのだ。
ましてや、一緒にいるのが無口なカデシュとなるともう、相乗効果も甚だしい。
ぼうっとして、チラとカデシュに目をやる。彼は何やら熱心に、本を読んでいた。
「ねえ」
「何だ」
「いつもいつも、なに読んでんの?」
「……これは、歴代の偉大な魔法使いとその功績についてだが」
ドリスはあからさまに興味なさげな顔をすると、
「面白いの?そんなの」
眠気で少々鼻にかかったような声で、問いかけた。
「……眠いなら眠っていていいぞ」
「んむ?」
「どうせ今夜一晩、降り続くのだろうからな。こんな状態では出られない」
「ん」
重くなってきたまぶたをくしゅくしゅとこすって、寝ぼけたような声を出した。
素直に洞窟の壁にもたれて座り込み、それからふと目を上げた。
「あんたは寝ないの?」
「私は……不寝番だ」
「…………」
ドリスは体勢を立て直し、腕を前に伸ばして伸びをすると、眠気を何とか追い出そうと「んっ」と気合いを入れた。
「あたしがするよ、それ。あんたこそ寝なよ」
「お前が?」
「何よ。どっちがしたって一緒でしょうが」
「それは、そうだが」
「もう、いいから!カデシュが眠って。あたし、さっき寝たから大丈夫」
「そんなに眠そうな目をしてよく言うな」
「…………」
ドリスはむうっと頬を膨らませる。
いいから寝ろ、とでも言わんばかりに肩をそびやかすカデシュの仕草に、不承不承横たわった。
洞窟の床は、雨が降って気温が下がったこともあって、思ったよりもずっと冷たかった。上に羽織る物もなくて、腕の出た服を着ていたドリスはそっと肩を抱きしめる。
先刻の、無防備なぬくもりが懐かしい。
ふと、バサッと音がして、自分にあたたかい物が被さった。ビックリして上半身を起こすと、
「羽織っていろ」
カデシュが、自分のマントを脱いでかけてくれたらしかった。
じんわりとしたあたたかさと、カデシュの匂い。ふいに胸が騒いで、ドリスは「いい」とそれを突き返す。
「寒いのだろう」
「……あんたが、寒いじゃない」
「いいから寝ろ」
やり場のない、わけの分からない気持ちが湧きあがるのを感じて、ドリスはそれを誤魔化すように横になった。
パチパチとはぜる焚き火の火は、少しずつ少しずつ、小さくなっていた。
「……まだ起きてる?」
しばらくして、ドリスは目を閉じたまま尋ねた。
一泊おいて、「ああ」という応答。
寝返りをうってドリスが向き直ると、カデシュは先程と同じ格好で、本を読んでいた。
「早く寝ろ」
「落ち着かない。……一緒に起きてる」
ドリスは首もとにかかった髪を払いのけると、「ん……」と微かにうなりながら上半身を起こした。カデシュはそれを見ていたかと思うと、何やら気まずいような顔をして目をそっぽ向けた。
「? なに?」
「……何でもない。気にするな」
「???」
きょとんとした顔をするドリスは気付いていない。自分のふとした仕草が、とても色っぽいものであることに。年頃の男の目から見れば、ドキドキしてしまっても仕方のないものだということに。
無意識にそんな態度を取ってしまっていることに、この罪な美少女は、まるで気付いていないのだ。
「ね、そっちに座っていい?」
「なぜだ?」
「寒いもん」
既に消えそうなほど小さくなってしまっている焚き火を指さしてそう言うと、カデシュは諦めたように本を置いた。
「字が読み辛いはずだな」
「目ェ悪くなるよ」
「余計な世話だ」
軽口を叩きながら、ドリスはカデシュのマントを羽織ったまま、彼の横に移動した。
「カデシュも寒いよね?」
「……それなりに」
そうでしょうね、と、ドリスはカデシュにもマントをかぶせた。
「おい」
彼はマントを押しやり、赤い瞳でドリスをじっと見た。
「何よ。風邪引くよりいいでしょ?」
「私は平気だ」
「は、よく言うわよこんなに冷えてるくせに」
カデシュの頬を軽く手で弾いて、ドリスは軽く彼を睨んだ。
「こうすれば二人ともあったかいじゃない」
「……それは、そうだが」
ドリスがカデシュの胸にかすかに肩を寄せると、彼は少しビクッと後ずさった。何その反応、という顔でドリスが見上げると、カデシュは気まずいような、照れたような顔で目をそっぽ向けている。心持ち頬が赤いのは、炎の照り返しなのか、それとも。
プッ、とドリスは吹き出しかけて、
「この方があったかいよ。……さっきも、気持ちよかったから」
ダイレクトに感じるカデシュの心音が、少し速かった。
そしてそれは、ドリスも同じ。
「ね?」
しばらく微動だにしなかったカデシュだったが、やがて、片手を上げた。
かなりの間があって、ようやくドリスの背中にその手が回される気配があった。
「……確かに、あたたかいな」
本当に、あたたかかった。
焚き火なんかよりも、ずっとずっと。
「お前は……」
ドリスが心地いいぬくもりにウトウトし始めた頃、耳元で低い、微かな呟きが聞こえた。
「時々本当に調子を狂わせるから、困るな……」
「そう……?」
目を閉じたまま、ドリスはカデシュの肩に頬を寄せる。
焚き火は既に消えて、洞窟の中は真っ暗。微かに残った煙の匂いと、雨の匂いと、サーっという静かな雨の音。真っ暗なこの闇の中で確かなものは、2つだけ。
ドリス自身の鼓動と、カデシュの鼓動。
あたたかく叩き合う、「生きている証」を、ドリスはその頬に、カデシュはその胸に感じる。
互いの体温が、伝わってくる。
「お前は、時々私の思考を狂わせる」
笑い、泣き、怒り、おどけ、はしゃぎ、がっかりし、ホッとし、恐怖にこわばり、心配そうに顔をしかめ、疲れ切って眠る……。人間にはこんなにもたくさんの感情があったのかと、今更のように感じさせる。
そしてそれは、自分の中にも持っていたものなのだと。
すっかり忘れていた、人としてのぬくもり。
「あの日」から、心の奥で求めてやまなかったものが何なのか。
それは、あたたかなぬくもりだったのではないかと。
いつからだろう。彼女の放つぬくもりに、触れてみたいと思うようになったのは。
それは、彼女が自分の母に似ているからではない。
思う存分彼女のぬくもりを堪能し、独占しているテンとソラを見て、心の奥がうずくような、わけの分からないイライラした感情が芽生えはじめて。
彼女のあたたかな笑顔を見るたびに、それをもっと、もっと長い時間見ていたい気持ちになる。涙を見ると、なぜか心がざわついて。自分に向けられる怒鳴り声も、怒った顔も、なぜか初めほどうるさいと思わなくなっている。それどころか、逆にそんな表情でさえ……。
すう、と寝息をつくドリス。そちらに目を向けると、長い睫毛が目に入った。
普段テンソラが独占している、彼女のぬくもり。
今だけは、自分だけの……。
「カデシュ……あったかい」
ドリスが呟いた。
「そうか……」
ふとドリスの手が、腕に触れて。
「あたしたち、さ。……ずっとずっと、遠回りしてたんだね」
近くにいたのに。何度も何度も、チャンスはあったはずなのに。
「ううん、あたし……、逃げてた」
呟く。カデシュの腕に力がこもった。抱き寄せられる。
「失うのが、怖くて。一緒にいた、今までの関係さえ、壊れちゃいそうで、側に、いられなくなっちゃいそうで、……怖かった」
「……ああ」
「寄り添う」ではなく、「抱き合う」。
「私も、同じだった」
カデシュの手が、ドリスの髪を撫でていく。
暗闇の中。
聞こえるのは、鼓動。
感じるのは、ぬくもり。
そしてなによりも、鼻先に感じる、互いの吐息。
ドリスの背筋を、何かが電流のように走っていく。
歓喜。そして、狂おしいほどの思慕。
でも、もう少し、この人の声を聴いていたい。
ドリスは手を伸ばして、カデシュの髪に触れた。サラサラした感触を楽しむ。
「長いの、邪魔じゃない?」
「別に……。以前のお前の方が長かっただろう」
数センチ先で囁かれる言葉。吐息がぶつかるのが、くすぐったい。
「短い方が似合う……って、ホント?」
「うん?」
「カデシュがあたしに、そう言ったのよ?」
「そうだった、か?」
「覚えてないの?ホントに」
「…………だが確かに、その方が……私は好きだ」
くす、とドリスが笑った。
「あたしは、カデシュのこの銀の髪が好き。陽に透けるとキラキラってしててきれいだもん」
「……父上が、私と同じ銀髪だった。だが私は、蒼い方が好きだ」
何でもない、他愛のない会話が続く。
もっと、この人と、こんな話をしていたい。
「……あんたの声が……」
好き。
「……あの時着ていた服が……」
好き。
「……そういえば、覚えてる?カデシュってば……」
好き。
「……それはないだろう、ドリス、お前こそ……」
好き。
好き、好き、好き、好き、好き。
ふと、言葉が途切れた。
沈黙が落ちる。
気まずい沈黙ではない。が、落ち着いたそれでもない。
止まない雨の音。
閉ざされた空間。
互いのぬくもり。
吐息。
鼓動。
何よりも、近くに感じて。
愛しくて。
恋しくて。
…………。
「ドリス……」
「……カ……」
囁きかけた名前を、唇でふさいだ。
初めてのキスは、すぐに終わった。
わずかに触れ合うだけで、離れてしまう。
鼓動が激しくて、壊れそうだった。
そして壊れそうなのは、理性も同じ。
二度目のキスは、ドリスの頬に手を置いて。
まだ、戸惑って。
ドリスからの三度目のキスは、段々その深さを増していって。
身体の奥から、軽い痺れと熱いものがこみ上げてきて、苦しい。
四度目のキス。
五度目のキス。
六回、七回、八回……。
……………。
要らない。
言葉は要らない。
こうしてるだけでいい。
互いの存在が、これほどに愛しい。
あなたといることが、これほどまでに愛しい。
ドリスは心の中で祈る。
かみさま、どうか、もう少しだけ、朝をこさせないで。
時のかみさま、どうか、あたしたちを見捨ててください。
もう少しだけ、溺れていたい。
もう少しだけ、このまま……。
もうすぐ、夜が明けるだろう。雨が止み、何事もなかったかのように、朝日が昇る。
そうして二人は、何事もなかったように、仲間の元へと戻っていく。
共に旅する仲間として。
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