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彩雲国物語 > Secret Colors

 雨が降り出しそうな、重たい空気が充満した日だった。
 立ちこめる湿気を少しでも何とかしたくて、窓辺にすり寄った絳攸は、窓を閉めようとしていた手を止めた。お世辞にも美しいとは言えない空を見上げて、彼はため息をつく。
「どうかしたか?」
 すぐ側にいた楸瑛が、ふと目を向ける。
「いや、別に」
 雨は嫌いではない。
 だがどうしたことかここ最近、雨の日を快く思わなくなっていた。その原因がどこにあるのか、果たして絳攸には分からない。湿気で紙と墨の相性が悪くなるからか。鬱々とした薄暗さのせいか。それとも……。
「あーあ、今にも雨が降りそうね」
 ひょいと小首を傾げ、執務室の隅っこにいた明輝が、窓から見える曇り空を見上げて呟いた。彼女は何かにつけて執務室に入り浸っていて、もはや言っても聞かないのは目に見えているため、絳攸もうるさく言うだけ無駄だと判断したらしい。
 金髪に近い薄栗色の髪をかき上げ、彼女はぼやく。
「雨って好きじゃないわ。空気が重たいし、顔色も悪く見えるもの。雨の匂いも、思うよりずっと強烈なのよね。気分が滅入るって感じ」
「元気いっぱいになるのは蛙や蝸牛くらいではないか?」
 笑いながら、劉輝が口を挟む。
「植物もですよ」
 絳攸が言って、窓を閉める。
 途端、遠くの方で落雷の音。
「秀麗がいたら大騒ぎね」
 くす、と笑いつつ、明輝が足を伸ばした。ずっと座りっぱなしで窮屈になったらしい。
 薄絹の裳が少しはだけて、すらりと長い足がふくらはぎ辺りまで覗いている。その足が素足なのに気づいて、劉輝が言った。
「明輝、裸足で寒くないのか? 襪はどうした?」
「窮屈だから脱いじゃった。足の指だって伸ばしてあげなきゃ、窮屈でぎゅうぎゅうになっちゃう」
 言いつつ、明輝は足の指を握ったり開いたりして運動する。それを見た楸瑛が、面白そうに微笑んだ。
「ひめさまは、足の指の爪までお可愛らしい」
 大きな目をぱちくりさせて、「そうかしら」と爪先を見る。
「妓楼のお姐さんたちの方が、爪先まで綺麗にお手入れしてるんでしょう?」
「そうなのか?」
 それはまた大変なことだ、という顔をして、絳攸が楸瑛を見た。
「私は特に大したお手入れなんてしてないわよ」
 面白そうに笑う楸瑛に怪訝な顔を返して、明輝は言う。
「爪にも紅を差すのは、この国ではあまりしないものね」
「異国では?」
「うん。ここへ来る前は、城の女官はみんな塗っていたわ」
「でも今は塗っておられないんでしょう」
 にこりと楸瑛は笑った。
「ひめさまの爪先は、まるで花びらか桜貝のようですからね。足の爪だけで、一体何人の男を殺せることか」
「……ほんと、クサい文句を平気で言うんだから」
 ちょっと頬を染めて、明輝は楸瑛を睨んだ。
「別の意味で殺せるんじゃないですか?」
 ボソッと、絳攸が口を挟む。
「ひめさまの足は凶器ですからね」
 明輝の美脚から繰り出される強烈な蹴撃の、その威力を知っている楸瑛も劉輝も、黙ってうなずくしかない。明輝は口を尖らせて絳攸を睨み、
「失礼ね! 人を歩く武器みたいに!」
「違うんですか」
「絳攸さん!」
 カッと眉をつり上げ、いつもの口喧嘩に突入しようかという、瞬間。
 特大の雷が落ち、声をかき消した。明輝は思わず「ひゃっ!」と身をすくませ、兄の衣を掴んだ。
「び、びっくりした。秀麗じゃないけど、ほんと、雷って怖いわ」
 劉輝は自分にすり寄る妹を微笑みと共に見つめ、髪を撫でようとして、ふと手を止めた。
「明輝。そなた、いつも髪飾りは桃色なのだな」
 すると明輝は、なぜかぎくっとしたように身を離し、唇を真一文字に結んだ。
 不思議そうな顔をする劉輝たちに、彼女は唐突に立ち上がり、
「お、お茶! お茶の準備、持ってくる!」
 と言い残して、慌ただしく部屋を出ていった。
「……どうしたのだ明輝は」
「髪飾りがどうかしたんでしょうか」
 呟いて、楸瑛は絳攸をチラと見、
「君が、ひめさまには桃色がお似合いですとか何とか言ったんじゃなかろうね」
「まさか! 絳攸だぞ楸瑛」
「ああ、それもそうですね」
「絳攸にそんな気の効いた言葉が出せるとは思えん」
「全くです」
 本人を目の前にして言いたい放題である。絳攸は一つ咳払いをした後で、
「俺が知るわけないでしょう。もし言ったとしたら、俺じゃなくて楸瑛、お前の弟か誰かじゃないのか」
「うーん、なきにしもあらずだが……」
 劉輝と楸瑛が首を傾げるのを横目で見つつ。
 絳攸は動揺を顔や態度に出さないように努めるのに必死になっていた。
 明輝が桃色の髪飾りばかり付けている理由を、絳攸は知っているのだ。
 絳攸が言ったわけではもちろんない。まして、誰かに言われたわけでもない。
 それは明輝が自分から始めたことだった。

 絳攸がそれに気づいたのは、もう数週間も前のこと。まだ明輝が桃色の髪飾りばかりを付け始めて間もない頃だった。
 ―― なぜ桃色ばかりを?
 ―― ……別に、大した理由じゃないわ。
 しばらくはそう言って誤魔化されていたのだが、絳攸があんまりしつこく尋ねるものだから、ついに折れた明輝は、頬を染めて呟いた。
 ―― 誰かさんが、私の髪に触るのが好きみたいだからよ。
 それでもまだピンと来ないらしい絳攸を、少し睨んで。
 ―― 桃李の花、と言うでしょう?

「お茶請けは桃饅よ」
 ひょいと目の前に現れた明輝の顔に、絳攸は「うわっ!」と思わずのけぞった。
「……何よ?」
 眉根を寄せる彼女に、何とか「別に」とだけ答えておいて、絳攸はこっそり劉輝たちの様子をうかがう。二人は特に気にした様子もなく、明輝の用意してくれたお茶を味わっているようだった。
「ひめさま、あの……」
「え?」
 明輝にだけ聞こえるように、ごくごく小さな声で、彼は言った。
「薄青や紅なんかも、合うんじゃありませんか」
 一瞬きょとんとした後、明輝はくす、と笑った。
「……そうね、じゃあ赤いのを探してみようかな」
「……なぜまた赤?」
「…………にぶ……」
 ―― あなたの名前でしょう?
 呆れたような顔で、小さく耳打ちされて。
 耳の先がカッと熱くなったのを感じた。
 つられたように自分も少し、頬から耳を薄く色づかせて、明輝は頬を膨らませる。
 ―― ほんと、"しのぶ"に向かないわね。
 ―― 何です?
 ―― 何でもないわ。要するに、"色に出過ぎ"ってこと。
 謎の言葉を残し、明輝は兄たちのもとへ去っていった。
 ―― 色……?
 明輝の遠回しな愚痴は、どうやら絳攸には通じなかったらしい。
 絳攸は小さく息を吐き出して、卓子に置かれた桃饅を手に取った。薄く染められた饅頭の桃色に明輝の色づく頬を重ね合わせ、かじりつこうとして開いた口を再び閉じる。
 唇を寄せるように饅頭を口に近づけ、思い直して皿に戻した。
「"何か、物思いかい?"」
 顔を上げると、楸瑛が何やらにやにやしてこちらを見ていた。絳攸はようやくピンときたようで、眉をつり上げて彼を見返すが、劉輝の傍らでお茶をすすっていた明輝は、あやうくお茶を吹き出しかけた。
 楸瑛は一人楽しそうに笑い、そんな彼を顔を真っ赤にした明輝がバシバシ殴りつけている。絳攸は無視を決め込むことにしたらしく、筆を握りなおした。
「な、何なのだ?」
 怪訝そうに皆を見回す劉輝だが、明輝はもちろん、楸瑛も絳攸も答えはしない。
「明輝?」
「何でもないの!」
 キッと劉輝を睨み付け、
「そんなことより早く仕事する!」
 そんなあ!と情けない顔をする劉輝にもたれかかって、明輝は頬を膨らませて絳攸を睨んだ。
 ―― "色に出"ない恋は、どうもお互い、できそうにないみたいですね……。
 明輝の視線を感じつつ、絳攸は心で呟く。

 雨の匂いが強くなった気がして、窓に目をやる。明輝も、同じように窓を見ていた。
「降り出したみたいね」
「ええ」
「草の上を裸足で歩くのが好きなのに」
「知ってます」
「雨だとそれができないから、嫌いなのよ」
 言われて、絳攸はふと納得する。
 ―― そうか、だから俺は。
「余も雨は好きではないな」
 劉輝がぽつりと呟いた。
「草の上を裸足で踊るように歩く明輝の、あのやさしい風景が見られないからな」

 雨は嫌いだと、絳攸は思う。
 もちろん、全てにおいて嫌いというわけではない。
 元気いっぱいで軽やかな、野を駆け抜ける風のような清々しさが見られないから。だから雨は好きではない。
 雨を嫌いになったのはいつからだろう。
 おそらくは、彼女が髪に桃色の飾りばかりを付けだした頃からだろう。
 思考をも、嗜好をも、狂わせていくそれは、隠し通せるものではないらしい。
 "物思いでも?"
 そう、人に問われるまでに。



百人一首の四十番歌より。テーマは忍ぶ恋。色に出ちゃってますよお二人さん、なお話でした。
学生時代に家庭教師してた時、教え子にプリント作成しながら思いついたもの。

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