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Novel
彩雲国物語 > Ex-girlfriend

 府庫の裏手が、僕と彼女の、いつもの待ち合わせ場所になっている。
 そこを指定するのは僕じゃない。いつも、あいつの方なんだ。
 大抵僕が行くと、既にあいつはやって来ていて、腰に手を当てて「おっそいぞ!」なんて口を尖らせる。
 別に、好きで遅れるわけじゃない。吏部はいつだって忙しいし、残業がない日の方が珍しいくらいだ。帰宅時間だってバラバラだから、仕事終わりに待ち合わせをするなんて、僕には考えつきもしなかった。つまり、最初に待ち合わせを言い出したのもあいつの方だったってこと。

「……あれ?」
 府庫の裏側に回って、僕は首を傾げた。
 あいつの姿がない。
 今まで僕は待たせる方で、待ったことなんてなかったから、少し拍子抜けした。
「何だ、まだ来てないのか」
 こんなことなら、早めに切り上げたりしないで、先輩官吏の仕事を少し手伝うんだったかな。そんなことを考えていると、背後でさくっと草を踏む音が聞こえた。
「だーれだ」
 背中に当たる柔らかい感触、目をふさぐ温かい小さな手。
 僕はハアッと大げさにため息をついてみせて、
「そういう子供っぽい真似好きだな、お前」
「ふふっ、いいじゃない別に。嫌いじゃないんでしょ?」
 笑いながら、あいつは言った。
 どうやら、これは新手の悪戯らしかった。こいつはちょっとした悪戯やからかいっていうものが大好きで、ことある事に僕を引っかけて楽しんでいる。一体何が楽しいのか、引っかけられるこっちとしてはよくよく理解できない。
 そういうところが、国試の時以来一方的に「心の友」とやらに認定されてしまったあの酔狂男、藍龍蓮と通じるところがあるような気がしないでもない。
 僕は、こいつの名前を知らない。名乗る必要なんてないじゃない、呼ぶ必要があるなら適当に呼んでちょうだい、と、のらりくらりとかわされ続けて早数ヶ月。
 こいつには、「ハク」、だなんてあだ名(彼女曰く「愛称」らしいが)まで付けられているというのに。

 確かに、こいつは顔だけ見てればとても可愛い。
 歩くと金茶色の髪がフワフワと踊り、それが陽の光に透けると驚くほど綺麗になる。
 小さな顔に大きめの部品が勢揃いしている感じで、これで口と奇想天外な性格がなければ……と、思ってしまったりする今日この頃。
 こいつだって、花の一輪でも持って優雅に上品に微笑んでいれば、きっとすごく可愛いんだろうに。持って生まれたものを生かしきれていない、という絶好の例だ。
 ……いや、断っておくが、僕とこいつは別につき合ってるってわけじゃない。特別な感情を抱いているわけでもない。
 そう、言ってみれば友達。今は茶州にいる秀麗といるのと、同じ感じの友達だ。まあ、秀麗はいわば同僚であって、こいつは同僚ってわけじゃないから、厳密に言えば違うのかもしれないが。
 友達に名前を教えないなんて、そりゃ一体どういう理由があるというのだろう。
「ハークってば!」
 目の前で言われて、はっと我に返った。
「早く行かないと、夕飯時に重なっちゃうよ」
 夕焼け空を見上げて、あいつはそう言った。
 僕らが今日ここで待ち合わせたのは、一緒に食事をするためだ。それも、彼女おすすめのラーメン屋が近所にあるというから。
 彼女のはっと目を引くほどに派手な外見からは、とても想像も付かないような庶民的な誘いに、初めはひどく驚いたもんだ。
「ああ、急ごう。車を待たせてある」
 言うと、あいつは「ハクってそういうところで手際がいいよね」と楽しそうに笑った。


 確かにラーメンは美味かった。ついでに頼んだ菜も、どれもこれもかなり美味いものばかりで、碧家の嫡男である僕としても充分及第点を付けるものだった。
 だが問題は別にあった。
「………………」
 向かい合って座った卓子に、山と積まれていく皿の数々。数える気にもならない。
「一体どういう体の構造をしてるんだお前は」
「ん?」
 菜をつつきつつ、あいつは顔を上げる。おいおい、ほっぺたにあんかけのタレがついてるぞ、タレが。
「仕事帰りの男である僕より倍、いやそれ以上に食ってるんじゃないのか!?」
「そーお?」
 きょとん、として、大きな目をぱちくりさせる。
「ハクが小食なんじゃないの?」
 いや、それは断じてない。平均的な量だと自覚してる。
「私のお兄ちゃんやそのお仲間さんたちは、私と同じくらいかもっとたくさん食べるわよ?」
 どんな胃の化け物だそりゃ。どこの誰だか知らないが、世の中には不思議なほど食べる人種がいるんだなあ。
「お前そんなんじゃ嫁の貰い手が……」
「食べないより健康的でいいと思うわ」
 そりゃ確かにそうかもしれないが。限度という言葉を知って欲しい。
 食後の杏仁豆腐まできっちり食べて、ようやく満足したらしい彼女は、乱立した皿の山を見てさすがにこれはと思ったのか、自分の分は自分で勘定を払うとか言いだした。
 いくら僕でも、女性に払わせるほど野暮じゃない。しぶる彼女を無理やり黙らせて、僕らは店を出た。

 外はもうすっかり夜だった。
 車に乗り込もうとする僕を、あいつが止めた。不思議そうに見ると、あいつは悪戯っぽく笑って、
「ちょっと散歩しようよ。今車に乗ったら、満腹で吐きそう」
「あんなに食うからだろ」
 呆れる言い分だけれど、まあ、食後に風に当たるというのも悪くない。
 しかも店のある界隈は、遅くまで店を広げている商店街でもあるようで、女が好きそうな小間物屋から菜を売る店までが、まだ人でにぎわっている。
 いや、にぎわっているなんて言葉じゃ表せない。人でごった返しているんだ。仕事帰りの庶民たちが行ったり来たり、それはすごい人の波。
「行こうハク!」
 本当に、こいつっていつでも楽しそうだよな。脳天気と言うか、底抜けに明るいと言うか。
 物珍しげにキョロキョロしながら歩いていくあいつの後を、見失わないように気を付けながら付いていく。
「きゃっ!?」
 唐突に彼女がつんのめって、こらえるように1歩後ずさった。
 後ろから追いついた僕にどんと当たって、僕が「どうした?」って訊くと、あいつは口で答えるよりも明白な答えを視線で示してみせた。
 あいつの前に、鼻を押さえている5つ、6つくらいの歳の、小さな男の子がいた。
 ああ、ぶつかってきたのか。
「どこ見て歩いてんだよっ!気を付けろよバカやろうっ!」
 うわあ、なんてガキだ。こんなチビスケのくせに、いっぱしの口をききやがる。
 身なりもいいようだし、裕福な家の子供なんだろう。そんな子供がなぜこんなところを一人でうろついているんだ?
 ガキの生意気そうな強い目が、なぜか不安そうに揺れているのを、あいつはめざとく見て取ったらしい。
「どうしたのお前。もしかして迷子とか?」
「ちっ、ちがわい!!」
 カッとガキの顔が赤くなった。図星か。
「ちょ、ちょっと探検してただけだっ!と、父様の車にもどる!」
 一人で吠えて、ガキはぷいっと踵を返す。
 だが数歩も行かないうちに立ち止まり、途方に暮れたように立ちつくしてしまった。
 バカ、人波で立ち止まったりしたら、……ああ、ほら見ろ。
 ガキはぶつかってきた人波に押されて、面白いほど簡単に、コロンと後ろに転んだ。
「だいじょぶ?」
 あいつが助け起こして顔を覗き込むと、ガキは生意気にも「さわんなよっ!」とあいつの手を振り払った。ほんとに生意気な奴だな、親の顔が見たいぞ。
「くそ、ぜったいに自力でもどってやる……」
 呆れた。その負けん気の強さだけは立派なもんだ。
 だが普通に考えて、自分の倍はある大人の群でごった返しているこの界隈を、こんなガキがひとりで元の場所に戻ろうなんて、自殺行為だ。それこそどんどん深みにはまって、更に迷子になるに決まってるじゃないか。
 どうやらあいつも、僕と同じ考えだったらしい。
「ね、おねーさんたちも一緒に行っていい?」
「はあ? なんで」
「お前がちゃんと帰れるか心配になってきた」
「ばっ、バカにすんなよ!おれはもう小さなガキじゃないんだからな!迷子になんかなるわけないだろ!」
「分かってる」
 笑って、あいつは腰をかがめ、ガキと視線を合わせる。
「実はおねーさんたち、迷子になっちゃったの」
「ええ? お前が? 大人なのに?」
 信じられない、といった顔を、ガキは向けてくる。あいつは「そうなの」と笑って。
「大人のくせに、迷子になっちゃったの。だから、お前が一緒に行ってくれると心強いんだけどな」
 相手を乗せるのが上手い奴だ。妙に矜持の高いこのガキを傷つけないように、実に巧妙にやってのけた。実際、ガキは「ふうん」と上目遣いに僕とあいつを見上げて、
「まあ、そういうことなら一緒に来てもいいぞ」
 と、いっちょまえに胸を張ってみせた。思わず吹き出すと、ガキはじろりと僕を睨んで、
「おいお前! お前まで迷子になってどうするんだよ! 男だったらちゃんと女を『りいど』しないとだめなんだぞ!」
 僕が顔を引きつらせたのを見て、あいつはぶぶっと吹き出して、
「そうよねえ、困ったおにーさんだわよねえ」
 と、ガキの手を取って歩き出した。手を繋ぐのを嫌がるガキを、こうしないとはぐれちゃうからお願い、とか何とか、またしても上手いこと言いくるめて。
 こいつのこういうところは、僕としても感心してしまう。僕にはとても真似できそうにない。僕だったら、きっと頭ごなしに言い聞かせるか何かして、無理やり引きずっていきそうなものなのに。
 もしかして、普段あいつの周りに、同じような性格の人間がいるんだろうか?
 ふとそんなことを考えた。
 当のあいつは、ガキとうち解けた様子で談笑しながら、さりげなく辺りを見回し、それらしい車を探している。ガキの奴、あんなに刃向かってたくせに、何だか今は犬みたいに振ってるしっぽが見えるようだぞ。
 何だか少し、面白くないような、もやもやした奇妙な気持ちになる。
 僕はこいつのことを何も知らない。何の仕事をしているのかはおろか、名前だって。
 一体お前は、どこの誰なんだ?
 何の仕事をしてる?
 どこに住んでる?
 家族は? 兄弟は?
 お前は、一体何ていう名前なんだ?
「あ!」
 ふいにガキが声を上げた。目をやると、車の前を動物園の熊よろしくあっちへこっちへ行ったり来たりしている男と、そんな男におろおろしながら何か話している家人らしき男。
「父様!」
 ガキが駆け出して、僕らは慌ててその後を追う。どうやら、無事に見つかったようだ。
 このバカタレー!と父親にげんこつを喰らってうずくまるガキに、あいつは苦笑する。
 父親は僕を見て、ギョッとなったような顔をした。
「こ、これは碧家の!!」
 あれ、誰だったかな。記憶に薄い。
「先日はご注文誠にありがとうございました!じきに納品させていただきますので!」
 思い出した。碧家に出入りしている宝石細工の卸問屋だ。
 書き物仕事のせいか、袖が邪魔になることが多いので、何とか袖をまくり上げて止めておけるものが欲しいと思い、発注したんだった。
 ふとガキを見ると、僕が「偉い人間」だったことに驚いているらしい。普通ならこんなガキに抱くはずもないのに、なぜかこの時は、ちょっとした優越感を感じた。
 卸問屋の父親は、僕と一緒にいるあいつを見、それからもう一度僕を見て、何やら邪推したらしい。お引き留めしては悪いですから、とか何とか、そういったことを述べて車に乗り込んだ。
 車が出る直前、父親の隣に座って名残惜しげにあいつを見るガキに、あいつは優しく笑って、
「お前、強い子ね。ひとりぼっちになっても、お父さんに殴られても、決して泣かなかった。本当に強い子ね」
 ガキはもとより、父親の方もびっくりしたようにあいつを見た。ガキはぱあっと見る見るうちに目を輝かせて、年齢相応に笑う。
「ねーさんねーさん、おれ、頑張って早く大人になるよ!だから、待っててくれよな!」
 何を待つだと? 怪訝そうに僕がガキを見ていると、ガキはびしっと僕を指さして眉をつり上げ、
「おいお前!」
 叫んだ途端に父親のげんこつが鳴って、ガキは頭を押さえながらもまだ僕を睨み付け、
「おれが大人になるまでの間、ちゃんとねーさんを守れよ!いいか、おれが大人になるまでの間だぞ!それまでだけだからな!お前なんかよりぜったいいい男になって、ねーさんを嫁にもらうんだからな!」
 僕はぽかんとしてしまった。ガキの頭を押さえつけて平謝りする父親の言葉の、半分も耳に入っていなかった。
 あいつはそんな状況を楽しんでいるらしく、「楽しみにしてるわ」と笑い、走り去る車を見送っていた。

 そろそろ戻ろうか、と声をかけると、あいつはそうねとうなずいた。
「また、いつもの場所でいいのか?」
「うん」
 車に乗り込んだ後でそう訊いた。あいつを降ろす場所はいつも同じ。宮城近くの、大通りの交差点。そこからどこへ帰るのか、僕は知らない。聞いても、上手くかわされるだけ。
 友達なのに、名前も知らない。
 簡単に仲良くなるくせに、本当の心は誰にも見せない。上辺だけっていうわけじゃなくても、それでも心の深いところまで他者が入ってくるのは、かたくなに拒んでいる。そんな気がする。
 それって、何か、……悲しくないか?
「―― なあ」
「うん?」
 車の振動がそうさせるのか、幾分眠そうな声であいつは応える。
「名前……、何ていうんだ?」
「………………知りたい?」
「…………うん」
「…………………」
 あいつは少し、黙る。
 また、煙に巻かれるかな……。
「僕は別に、お前が誰だろうと驚かないぞ」
 先制するみたいに言った。今みたいに、気兼ねない関係を続けるには、きっと彼女の名前、彼女の身分は、邪魔になるんだろう。だから、言わない。
 僕だって馬鹿じゃない。そのくらいの想像は容易につくさ。
 彼女が僕に名前を教える。それは、下手をしたらもう二度と会えなくなるかもしれないということ。友達という、今の関係でさえ。
 本当は、薄々気付いてる。
 お前が、いや、……君が、誰なのかってことくらい。
 いつも人気のない府庫の裏で待ち合わせ。必ず僕よりも先に駆けつけ、宮城を出るのも、誰にも見つからないように裏口から。別れる場所だって、行き先を知らせないために、どこへでも出られる大通りの交差点。そしてあっけなく、薄闇の向こうに消えてしまうんだ。
 ………………。

「……明」
 ぽつりと、あいつは言った。
「ミン、よ、ハク」
 もやもやと抱いていた想像が、僕の中で確信に変わった。
 でもそれはきっと、彼女なりの最大限の譲歩。
 だから、僕も。
「ミン、か。何だ、思ったよりあっさりした名前だな。さんざんもったいぶるから、どんな素っ頓狂な名前かと思えば。面白みも何にもないじゃないか。それなら『藍龍蓮』の方がよっぽど奇想天外だぞ」
「あー!言ったわね!」
 馬鹿みたいにあいつとじゃれる。さっきのガキと何ら変わらない、いや、ひょっとすると僕らの方がガキに見えるかもしれないような、馬鹿みたいなじゃれ合い。
 別れる場所まで来たとき、あいつはやけに晴れ晴れとした顔をして車を降りた。
「今度龍蓮に会ったら、ハクが『あいつの名前は奇想天外だ』って言ってたって告げ口してやるから」
「ふん、望むところだ馬鹿」
 あいつが楽しそうにくすくす笑う。
 ……あれ、何か、この間までよりも、ずっと可愛く笑うじゃないか。
「じゃあまた」
 そう言って、あいつは僕と握手をする。
 ……そう、帰るんだ。あいつの兄上や、あいつにかしずく大勢の女官たちのいる場所へ。
 あいつのいるべき場所へ。
「ああ」
 僕もうなずいて、あいつの手を握る手に、ぎゅっと力を込めた。
「またな、ミン」


 碧家の屋敷へ帰り着いて、迎えてくれた家人が、僕の顔を見るなり言った。
「何か、いいことでもあったんですか?」
「別に」
 素っ気なく言うけれど、こみ上げてくる微笑みは隠せていないらしい。
「何でもないさ」
 そう、何でもない。
 ただ単に、友達の名前を知っただけ。
 ただそれだけのこと。
 だから、あいつも僕も、変わらない。
 明日顔を合わせても、きっとこれまでと同じようにくだらないことを話して、時には府庫の裏で待ち合わせて、向かい合わせに座って食事して。そして時に、迷子のクソ生意気なガキの相手をしたりして。
 ただ1つだけ変わることと言えば、お互いに名前で呼び合えるようになったことだけ。
 ミン。
 ハク。
 ただそれだけ。
 だから、僕らは変わらない。
 これからも、ずっと、ずっと。


珀明は誰に対してもいいヤツだと思います。
珀明とひめの場合、恋人にはならないんだけど親友ポジションに常にいるイメージ。

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