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Novel
彩雲国物語 > 避雨

「……くそっ」
 突然の夕立に軒先に逃げ込むと、僕のすぐ側で、李侍郎はぐっしょりと濡れた髪を乱雑に掻き上げた。
 その光景に、僕は息を呑む。
 雫のしたたる前髪。普段はさらさらと額で揺れている薄青のそれが、今は一筋、二筋、束になって額に張り付いていた。
 頬にかかる髪が濡れて張り付いて、上着の襟から覗く首筋にかかっている。
 その妖艶さを、この方はご存じないのだろうか。
 ……ご存じないに違いない。
 雨の伝う頬、濡れた服が張り付く、細身の体。自分が濡れたことより、抱えている書巻が濡れてしまったことを気にしているような李侍郎。

 大量の書巻を戸部へ運んでいる途中で李侍郎に出会って、「手伝ってやろうか」と声をかけていただいたときは驚いた。僕はまだまだ新人で、そりゃ上位で及第していたから名前くらいはご存じだったかも知れないけれど、
「碧珀明、だったな」
 と少し微笑んで言われたときは、自分がどうなることかと思った。
「部下の名前くらい覚えているさ。特に、有能さを期待できる者はな」
 天にも昇る心地とは、こういうのを言うんじゃないだろうか。あの方に、ずっとずっと憧れ続けた李侍郎に、「有能だと期待できる」と言ってもらえたんだ。
 僕はもう少しでスキップでもしてしまいそうな気分だった。

 そこへ、この雨、だ。
 ついてないのか、……ついてるのか。
 僕は自分より背の高い李侍郎を横目で見上げて、気付かれないように唇を引き締めた。体中が緊張している。
 思えば、この方と同じ吏部に配属になったと言っても、実際に会話をしたことはほとんどなかったし、まして二人きりで話をするなんてあり得ないことだったんだ。緊張しない方が、おかしい。
「ああ、くそっ」
 チッと小さく舌打ちをして、李侍郎は濡れた書巻を上着の袖でぬぐっている。
 かつりと噛む、薄い唇。
 この方は、女嫌いなんだよな。
 ふと、場違いなことが脳裏に浮かんだ。
 李侍郎の薄い唇。あの唇で、この方は女を喜ばせたことがあるんだろうか。
 ……そりゃあ、一度や二度と言わず、あるんだろうな。何と言ってもこの方が普段一緒に居られるのって、有名なタラシ……もとい、モテ男の藍将軍なんだから。藍将軍に連れられて、花街へ行くことだってきっとあるだろう。
 …………。
「碧?」
「ひぇっ!?」
 唐突に声をかけられて、思わず頭の先あたりから出たんじゃないかと思うような、上擦りまくった声が出た。
「どうした、黙りこくって」
「い、いいいい、いいえっ! べ、別にっ!」
「………そうか?」
 幾分怪訝そうに、ガチガチになっている僕の様子を見ると、李侍郎はふうと息をついてもう一度軒先から見える空を見上げた。
 ざんざんと音を立てて、夕立は続いている。
「……最悪だな」
 李侍郎が呟いた。
「降りそうだとは思っていたが、まさかこんなに突然降るとは……」
 独り言のようにため息をついて、濡れた書巻を再び袖口でぬぐい、
「これでは戸部に文句を言われそうだ」
「す、すみません」
 思わず口をついて出た謝罪に、李侍郎は「ん?」と僕を見た。
「別に、お前のせいではないだろう」
「で、でも、僕のせいで李侍郎まで濡れてしまわれて……」
「気にするな」
 そう言ってあの人は、ふ、と苦笑する。
 僕は、また息を呑んだ。
 僕だけに向けられた、柔らかい笑み。
 心臓がギュッと収縮したような感じがした。
 チリチリと胸が焼けるようだった。
 雨に濡れた李侍郎の、水滴のしたたる頬や首筋、髪、指先までも、何もかもが、僕を狂わせていくようで。
 突然の豪雨に人影はなく、夏の太陽に熱されていた宮中が、夕立によって冷やされていく。
 この夕立が、僕の気持ちの変わり目のような気がしてしまう。
 「憧れ」という気持ちと、「想い」という気持ちと。
 熱い「憧れ」という太陽によって熱されるままだった僕が、夕立によって静かに冷まされ、涼やかで穏やかで、でも今までとは別の熱を孕んだものへと変わっていくような。
「まあ、慌てることもない、か」
 李侍郎が、ふ、と笑いながら呟いた。
「ここのところ吏部は立て込んでいたからな。少しくらいここで休憩していても、かまわんだろう」
 はい、とうなずく代わりに、僕は李侍郎を見上げて笑った。
 この方と、微笑み合える日が来るなんて。

 この夕立がもう少し続けばいいと、僕は思った。
 そうすればもう少し、大好きな人と雨宿りが出来るから。


珀明→絳攸はあこがれ色が強いわけですが、ふとした瞬間にドキッとしてたりするといいなぁと。

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