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Novel
彩雲国物語 > Mellow Wine

 紅黎深の屋敷にある、絳攸の私室。
 時刻は深夜の一時過ぎであろうか、個人的な書き物を終えた絳攸が私室へ戻ろうと廊下を歩いていると、目的地であるそこから、明かりがまだ煌々と漏れているのに気づいた。
(まったく……)
 ため息をついて、彼は部屋に入る。そこにいるのが核弾頭のような問題児二人であるから、自ずと嘆息してしまうのだ。
「ひめさま! 龍蓮!」
 小気味の良い音を立てて扉を開きながら、絳攸はその名を呼んだ。
 室内には案の定、大量の酒瓶が転がっている。呼ばれた一人は卓に突っ伏して、もう一人は窓枠に腰掛け寄りかかったまま、泥酔状態で眠り込んでいた。
「ひめさま、起きなさい! 龍蓮も!」
 絶世の美姫と噂に名高い主上の妹姫を揺り起こし、その姫と「心の友」であるらしい藍家の若者の肩を叩く。叩いた途端、彼はゆらっと揺らいでうっすら目を開けた。
「あぁ……、あー……、うるさいな……。……何だ、そなたか……」
 むずがる子供のように呻りながらも、先に起きたのは龍蓮だった。これが藍家の誇る「藍龍蓮」を継いだ者とは……と半ば呆れながらも、絳攸は眠気で目をしょぼしょぼさせている彼に歩み寄る。
 今にも眠りに落ちそうな龍蓮は、いつもの精悍さも、風流を愛する奇人ぶりも、巧みな話術による天才さも、すべてが抜け落ちてしまっているような気がした。そこにいるのは天才藍龍蓮ではなく、ただのむずがる幼児に似た少年だった。
 そんな彼を、絳攸は抱えるようにして立ち上がらせる。
「窓も開けっ放しで。風邪を引くぞ。お前が酒に強いのはよく分かっているが、そんなになるまでの深酒は……」
「ああ、分かった分かった。……まったく、そなたは生真面目すぎて、うるさくてかなわん……」
 大きくあくびをして、龍蓮はふらふらと扉の向こうに消えていく。彼に貸している客間の一つへ戻っていったのだろう。
 絳攸はその後ろ姿を見送りながら、またひとつ大きくため息をついた。
 これで一人は片づいた。が、さて……、残った一人が大問題なのだ。

「……ひめさま」
 声をかける、だけでは、無論起きない。絳攸は彼女の細い肩に手をかけたまま、しばし彼女の顔に見入った。
 薄い象牙色の肌に、酒の影響でほんのり紅が浮かんでいる。酒に濡れた唇は紅く潤んで、呼吸をするたびに微かに動いていた。その動きが、まるで絳攸を誘惑しているかのようで、思わず彼は目をそらす。
(困ったものだ……)
 つい、思った。王族であり、主上の妹姫であるはずの明輝が、こうして度々紅家の屋敷に入り浸り、しかも藍家の若者を交えて酒盛りをしていることが、である。
 事の発端はと言うと、絳攸の元に龍蓮が押し掛けてきたということをふと執務室でこぼしてしまったことだ。楸瑛は申し訳なさそうに顔を引きつらせたが、明輝の反応は彼とは正反対で、龍蓮と飲めるとはしゃいで、その夜早速絳攸の車に無理やり同乗したのだ。
 そうして、突然美少女を連れて帰宅した養い子に、養い親の妻である百合姫は驚愕し、なぜかもの凄い勢いで女性同士意気投合し、「娘って憧れだったのよ」と興奮気味にのたまう女王陛下に絳攸が無碍な態度をとれるわけもなく、度々出入りすることを許可する他なくなったというわけである。
(それにしても、不思議なものだ……)
 明輝が、男である龍蓮と、親友という位置関係を見事に保っていることが、だ。
 いつ恋に発展してもおかしくないほどに、彼らは仲が良い。共に茶を飲み、酒を呑み、歌い、喧嘩をし、また酒を呑んで仲直りする。時には同じ部屋で眠ることすらある。それでも彼らは、自分たちの関係が恋ではなく友であると言う。
 それが絳攸にはどこか滑稽に、そしてどこか羨ましく思えるのだ。自分には絶対になし得ない関係だと。
 二人の間に流れている、ほんの僅かな空気の違い。自分といるときとは違う、龍蓮と共にいるときにだけ纏う、明輝の空気。確かに彼ら二人だけが持っている、色、のようなものを、絳攸にははっきりと見て取れるのだ。好敵手でも、友人でもなく、その色はどこか謎めいた、不可思議な深みを持っているような気がしていた。
 「天才」と呼ばれる者のみが持つ独特の色だと、いつだったか楸瑛がもらしていたのを思い出す。龍蓮と同じように、明輝もまた「天才」なのだと、楸瑛は認めた。彼女がふとした瞬間に見せる、刃のように鋭い叡智と行動力。彩雲の国内に留まらぬ膨大な知識を、どうやらこの乙女はその内に隠し持っているらしいのだ。それを楸瑛は、「天才」の持つ色だと言った。
 その色に触れるたびに、絳攸は胸が騒ぐのだ。自分たちの前ではほとんど見せない無防備な笑顔を、龍蓮の前で見せている、その事実に触れるたびに。
 そうしてそれを、ただ羨望の目でもって、じっと眺めるしかない自分に気づくたびに。

「ひめさま!起きてください!」
 絳攸は少し力を込めて、その肩を揺さぶった。
 今度は少し反応があって、明輝がうっすら目を開く。温かな琥珀色に似た大きな瞳。じっと見つめられるたびに、耐えられず目をそらしたことが一体何度あったろう。
「んん……んむ……? ……なんだ、絳攸しゃんかぁ……」
 顔を上げた明輝は、寝ぼけた声で龍蓮と同じような言葉を呟いた。一度大きく息を付いた後、白く長い明輝の腕が、絳攸の首に巻き付いてくる。
「ひ……」
 今度は、絳攸はその名を呼ぶことができなかった。
 熱く潤み、酒の匂いを宿した唇が、絳攸の口を塞ぎにかかったからだ。
「ん……んふ、んふふふふ」
「ひっ、ひめさま!おやめくださ……」
「んむ……」
 嬉しげに笑いながら、彼女はちゅっちゅっと唇を吸ってくる。大きな瞳が細められ、濃く長い睫毛が白い肌に影を落とす、その甘い光景に、絳攸は手を宙に彷徨わせることしかできない。
 本来自分の仕える主のような身分である明輝だから、絳攸は彼女を邪険に扱うことなどできるはずもない。だから、彼は明輝の気の済むまで、甘く濃厚な口付けを与え続けられねばならなかった。

 彼女はいつもこうなのだ。
 紅家で呑んで酔いつぶれるたびに、この美貌の娘は見境なしに口付けをしたがるようなのだ。だから、毎度毎度彼女を運搬する役目を担わされている絳攸など、もう何回それを味わわされたかしれない。
 だがしかし、だからと言って自分以外の者に役目を代わらせようという気はさらさらないのだ。だからこそ、質が悪い。
「こうゆうさん」
「――――っ、は……」
 返事をしようとすると、明輝の唇の端から、飲みきれなかった唾液が、とろり、とこぼれた。明輝か絳攸か、どちらのものともしれないその唾液は、彼女の唇を艶めかしく濡らし、つつっと顎を伝う。
 扇情的すぎるその光景に、絳攸はたまらずに視線を逸らす。何を考えているのだと、彼は自分を叱りつけた。
「……んー……」
 眠たげな吐息を漏らし、明輝が絳攸の胸元に崩れてくる。自分にもたれて、再び眠ろうとし始めた明輝を、絳攸は慌てて揺すった。
「ちょ、ひ、ひめさま!ちゃんと寝室で寝てください!ひめさま!」
「んー……、うるさいなあ……」
 あふう、とあくびをして、明輝は目を擦る。そしてふと絳攸を見上げて、思い出したように再び唇を寄せてきた。
「ひめさ……」
 言いかけた絳攸に、明輝は微笑んでみせる。それも、婉然と。
 普段の無邪気なそれでも、悪戯っぽいそれでもない。誰も見たことがない、彼女の「女」の顔。
 やけに大人びた、艶を含んだその笑みに、絳攸は思わず言葉を飲み込んでしまう。
 彼女は、こんな色っぽい顔をすることもできるのか――。
(暴れ馬だとばかり……思っていたのに……)
 寄せられる唇に、思わず抱き寄せて吸い付きそうになる、そんな自分を無理やり押しとどめて、彼女の肩を掴んだ。そして、我知らず頬を染めながら、少しきつく明輝を睨む。
「……冗談でも、こんなことを軽々しくしては駄目です。あなたは姫君なんですから」
 言った後で、彼は歯噛みした。本心に倣っているようで、まったく逆のことを口にしている。
 もとより、誰にも譲る気はないのだ。彼女を「運搬する」という、この役目を。
「ああ、うるさい、うるさい。ほんっとに気の利かない男ね、あなたって」
「……は」
「……私は眠ってるんだから、そのまま担いで寝台まで連れて行くくらい、したらどうなの……」
「は……」
 明輝の自嘲するような表情を、しかし絳攸は見ることはなかった。彼は何故か火照っている自分の頬を見られたくなく、明輝から視線を外したままでいたのだ。
 存外しっかりした歩調で歩き出した明輝は、絳攸が開けたままにしていた扉に手をかけた。
「……、絳攸さん」
「…………」
 長く白い指を扉にかけたままで振り返り、明輝が絳攸を呼んだ。絳攸はふと顔を上げ、明輝の姿を見る。
「あなたも、相当に鈍い男ね」
「…………」
「一体何度、機会を潰す気なのかしらね」
「……、は……?」
 からかうような微笑を浮かべて、不可解な言葉を残すと、明輝はふらりと部屋を出て行ってしまった。残された絳攸はわけも分からず、ただぼんやりと、酒の匂いの強く残った部屋の真ん中に突っ立ったままだ。
 しばらく絳攸は、明輝の言葉の意味を探るかのように眉を寄せ、その場に居残っていた。やがて家人がやって来て、問題児二人の飲み散らかした酒瓶を拾い集め始めるまで。

 本当に困ったものだと、絳攸は改めて思う。
 明輝が紅家で酒を呑んだ、その日の夜、彼がすんなり寝付けたためしなど、今まで一度としてないのだから。布団の中で、半ば不機嫌に明輝のことを思い、酒の匂いの混じった唇を思い出しては寝付けなくなることなど、明輝は考え及ばないのかもしれない。
 そうして翌日には、二日酔いと何故か寝不足に悩まされている明輝に、朝から半ば八つ当たり気味にちょっかいを出される絳攸なのだが、その真意には気付けずにいる。
 そして、双方の真意を知る龍蓮にからかわれる羽目になるのだが。

 とりあえず今夜も、唇に残った酒の風味と感触の甘さに、悶々と寝付けなくなる覚悟を決めねばならないと、ただそれだけを絳攸は思うのだった。


すべてを知った上で行動する龍蓮と、ひたすらに振り回される絳攸。
ひめは何度もチャンスを作って絳攸が行動を起こしてくれるのを待ってるのです。

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