彩雲国物語 > 秘密のまじない |
日課になっている府庫でのお茶時間からの帰り、突然の驟雨に見舞われた。痛いくらいの大粒の雨が、ボツボツと音を立てるくらいの勢いで降りだし、宮城の敷石の上にシミを作ったかと思うと、あっと言う間もなく土砂降りの雨に、目の前が遮られた。
「うそ! ちょっと、やだっ!」
慌てて屋根のあるところへ飛び込む秀麗の後を、劉輝は追いかける。僅かな間に、最高級の絹の間から、雨水はぐっしょり二人を濡らしてしまった。
「やはり降ってきたな」
適当な室内に逃げ込み、手近な椅子に腰を下ろすと、劉輝は窓外を見遣る。頭上の雲はさほど黒いというわけではないのに、大量の雨水を含んでいるらしい。
ふと見ると、秀麗は蒼白な顔をして唇をぎゅっと引き締めている。劉輝がどうした、と尋ねるより早く、彼女は両肩を抱くようにして体を縮ませ、何かに堪えるような仕草をする。
寒いのだろうか、と思案して、劉輝はつと視線を巡らせ、上手い具合に見つけた大きな布で秀麗を包み込んだ。
「随分濡れてしまったな」
「………………」
「秀麗? 大丈夫か?」
「………………」
まさか、風邪でも引いたのではあるまいな。そう思い、劉輝は不安げに秀麗の顔を覗き込む。
真っ青な顔をして、秀麗はぎゅっと目を閉じていた。
「しゅ、秀麗……?」
いよいよ不安になった劉輝は、熱があるのではと額に手を当ててみたり、もっとたくさん布がないかと室内をうろついたり、とにかくオロオロと慌てふためいた。
蒼白になった若い娘を、寝かせた方がいいのか寝かせぬ方がいいのか、どう扱っていいものやら、それすら分からぬ自分に情けなさと不甲斐なさを感じながら。
「大丈夫……」
ようやく、秀麗が口を開いた。
「ちょっと、雨とか雷とか、苦手なだけ、だから」
「………………」
今にも倒れそうな顔で、カタカタと細かく震えながら大丈夫と言われても。
劉輝は困り果てて、ただ心配そうな面もちでじっと秀麗を見つめるしかなかった。
室内に灯りはなかった。本当ならまだ夕暮れ前という時間なのに辺りは不気味に薄暗く、二人の肌の白さだけが、灰色の室内に浮き上がっている。
激しい音を立てて、窓外の景色を白く霞ませて、雨は降り続いていた。外を歩いていた官吏たちの悲鳴や、屋内に避難する騒々しいざわめきも、次第に遠くなっていく。
激しい夕立の音。耳に煩い雨音に包まれながら、二人だけの室内は静寂に満ちていた。
「……寒くはないか? 秀麗」
沈黙に堪えられなくなって、劉輝が呟く。秀麗はこくり、とうなずいて応えた。
良かった、と安堵した瞬間に、劉輝自身がくしゃみをする。ぐしゅ、と鼻をすすり上げると、秀麗が首だけ振り返って、小さく笑った。
イマイチ決まらない、と、劉輝は苦笑いする。
民にとっての頼れる王になりたいと、そして秀麗にとっての頼れる男になりたいと、そう思うのに、どうにもイマイチ決まらない。
けれど、どうやら秀麗の張りつめたような緊張感は、少しばかり緩和できたらしい。蒼白だった表情に、少しばかり、色が戻ってきたように思える。
濡れた秀麗の髪を、劉輝は見下ろしていた。ポタポタと垂れる雫は華奢な肩に落ち、先程劉輝がかけてやった布に吸い取られていく。細い首筋を伝っていく水滴。
艶やかに濡れた黒髪。首に貼り付いているその後れ毛に、劉輝はそろりと手を伸ばしていく。
「――…………」
劉輝の指先を感じたのか、秀麗はピクリと体を震わせた。羽織った布をぎゅっと握ったままで、それでも秀麗は動かない。
黙ったままで、劉輝は指先を、秀麗の髪に滑らせる。絹糸のように絡みつく、濡れた後れ毛。それをそっとかき分けると、眼前に真っ白いうなじが現れる。
「……秀麗」
うなじに触れたまま、劉輝は呼んだ。
「……怖くなくなるまじないを、してやろう、な」
雨に冷やされたうなじは、少しひんやりと冷たかった。その冷たさに吸い寄せられるように、劉輝はうなじに唇を寄せる。
軽く触れさせ、自分の体温を分け与えるように。両手で首筋を包んでおいて、劉輝は体をそっと屈めて、次第に強く口付けを落とした。
ちゅっ……。
音を立てて、一度きつく吸い上げる。れろっと舌先でうなじをなぞると、くすぐったいのか、秀麗は息を吸い込むような声を上げて身をよじった。劉輝の舌に、雨の雫と秀麗の味が残る。
白い肌に、一つの痕跡。暗い室内でも、白いうなじに作られた鬱血の痕はハッキリ認められた。
「……ふ……っ」
まだぞくぞくと背筋に走るものがあるのか、秀麗はきゅっと肩を縮ませて震える体を抱きしめている。
「――…………」
秀麗の体を、劉輝は後ろから包み込んだ。秀麗は瞬間ビクッと体を強ばらせるものの、体温を感じ、包まれ守られているという自然な安堵を感じたためか、次第に緊張をほぐしていった。
濡れた体に、互いの体温を感じる。
「まだ、怖いか?」
耳元に、低く囁く。それには答えず、秀麗は無言で、それでも自分の前に回された劉輝の腕に、そっと手を置いた。きゅ、と、劉輝の衣の袖を掴む。
「では、もう少し強めのまじない、だな……?」
前に回した片手で秀麗の顎を持ち上げ、振り向かせる。僅かに目の縁を熱くしている秀麗に、餓えたような口付けを落とした。
劉輝の袖を掴んでいた秀麗の手が、ひくん、と微かに戦慄いた。
舌が絡み、熱い吐息が混ざり合い、じっとりと濡れた室内の空気に、劉輝は軽い目眩を感じる。
「――何、するの、よ」
長い口付けの後、顔を間近に寄せたままで秀麗が呟いた。その目の縁は、まだ紅くなったまま。
照れているのだろうということは、容易に知れた。
「……秘密のまじないだ」
にっ、と笑って、劉輝は怒ったような顔をする秀麗を見つめる。
「怯えるどころではなくなったろう?」
間近で、秀麗がカアッと赤面する。劉輝の笑みは深まり、秀麗の赤い頬に、ちゅ、と可愛い音を立てて口付ける。
秀麗は劉輝の唇から逃げようと顔を背けかけるが、もちろんそんなことはさせてやらない。
秀麗の引き結ばれた唇を、舌でチロチロと舐めてやると、強気な眉がどんどん下がっていった。頬に掌を包むように添えて、再び、かじり付くような口付けが落とされた。
「……ん……ふ……っ」
飲みきれなかった唾液が、つつっと秀麗の口角から顎へ伝う。チュク、とわざと音を立てて唇を吸い上げてやると、力なく劉輝の腕を這うだけだった秀麗の手が、ギュッと彼の衣の袖を掴んだ。
たまらない、この感覚。
「………………」
細い唾液の糸を引いて唇が離れると、劉輝の愛おしげな視線にぶつかり、秀麗は慌てて目をそらした。今一度劉輝の顔が近づいて、秀麗の顎を伝っていた唾液を舌先で拭っていく。
ふ、と、熱くなった息を吐き出す秀麗に、劉輝は笑む。
秀麗は視線を逸らし、拗ねたような顔をして、体中が火照っていくような熱を感じていた。
そうして、そのまましばらく、二人は無言で時を過ごした。
「……秀麗」
やがて秀麗の耳元に囁いた声は、まだ少し熱を伴って。
「まだ怖いのではないか?」
何かを期待するような言い草に、秀麗はますます顔を赤くして、今度はとうとう眉をつり上げる。
「怖いもんですかっ! いい加減調子に乗り過ぎよ劉輝!」
早速怒鳴る元気を取り戻した秀麗に、劉輝は喉を震わせてくつくつと笑う。
いつの間にか雨は小降りになっており、雲間からはチラチラと光さえ差してきていた。
「残念だな。まだまじないをかけ足りないというのに」
「馬鹿っっ!」
今度こそ顔を真っ赤にして勢いよく離れると、余裕の笑みを浮かべている劉輝に、羽織っていた布をぞんざいに丸めてそれを投げつけた。
「何考えてるのよ助平! 信じられない!」
耳朶まで赤くして怒る秀麗が可愛くて、劉輝は楽しそうに笑う。
「行きましょ!」
ガラリと扉を開けて、大股に、乱暴に歩き始める秀麗の後を、劉輝は慌てて追いかける。
そしてふいに立ち止まり、「秀麗」と彼女を呼んだ。振り返る秀麗に、劉輝は悪戯っぽく人差し指を口元に持っていき、
「先程のまじないは、余とそなただけの秘密のまじないだぞ」
「なっ……」
「かけてほしい時はいつでも言うがいい。見てのとおり、効果抜群だからな」
「…………っ! 馬鹿っ!」
怒鳴って、秀麗はぷいっと向こうを向いて歩いて行ってしまう。そんな秀麗を見つめ、劉輝は幸せそうな、とても柔らかな笑みを浮かべる。
いつでも、どんな時でも、そなたの恐怖を取り払うから。そのための努力など、惜しまないから。だから、いつまでも自分だけに、秘密のまじないをかけさせて欲しい。二人だけの、秘密のまじないを。
「……置いていくわよ!」
劉輝が立ち止まっているのに気付いて、そう怒鳴る秀麗に。その耳朶がまだ真っ赤になったままなのを見遣って、彼は後ろで、気づかれないようにこっそりと笑った。
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同人誌『涼珈琲』よりサンプル的に。
劉輝と秀麗は幸せになればいいのです。 [ 戻る ]
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